こんなに弱くてゴメンナサイ…勝龍寺城(京都府長岡京市)の謎
“歴史芸人”長谷川ヨシテルが太鼓判を押す!?「最弱の城」
そんな勝龍寺城が歴史上に大々的に登場するのは1582年(天正10年)に起きた「山崎の戦い」です。「本能寺の変」の11日後に起きた明智光秀と羽柴秀吉の「天王山の戦い」としても知られている合戦です。この戦いの時に、京都を抑えていた明智光秀は勝龍寺城を最前線基地として改修したそうです。もちろん秀吉軍を受け止め、自軍の兵を収容するためです、しかし、これが大誤算でした。
勝龍寺城の大きさは、東京ドーム約1個分(≒4.7ha)です。江戸城は2082ha(日本最大)、大阪城は452ha、姫路城は44ha、熊本城は20haですので、有名なお城に比べると、かなり小さいことがわかります。さらに、本丸に限ってみると大きさは105m×70mで、サッカーコート(105m×68m)とほぼ同じ大きさになります。さらに、本丸の内側には土塁が盛られているので、現地に行ってみるとサッカーコートと同じ大きさと思えないかなりの手狭感です。
さて、「山崎の戦い」で敗走した明智光秀は勝龍寺城に兵を集め、秀吉軍を迎え撃つ作戦を取りました。しかし何と、勝龍寺城はあっけなく落城してしまいます。
一体なぜか。
それはどうやら、
・「城が小ぶりで、兵を収容しきれなかった」
・「城が小ぶりで、秀吉の大軍を受けきれなかった」
・「そんなこんなで、兵の脱走が相次いだ」
からだそうです。
実に本末転倒です。
勝龍寺城で戦うことを諦めた光秀は、密かに北門から脱走しました。そして、光秀はここから居城の坂本城へ落ち延びる途中に、小栗栖のヤブで落ち武者狩りに遭って討ち死にしてしまいます。このお城が目論見通りにきちんと機能していれば、「三日天下」と言われた光秀の運命も変わっていたかもしれません。勝龍寺城は日本の歴史を動かした『最弱の城』の1つなのです。
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